<日本人が使えない理由>
日本人は、第二次ベビーブーマーまでは、受験戦争なる言葉が象徴していたように、
競争にさらされ、切磋琢磨し、生き残りをかけてしのぎを削って成長にどん欲に生きてきました。
しかし、昨今では偏差値教育の否定、競争して1位、2位、最下位を決めることに、
個性の尊重を否定するとして、ゆとり教育然り、甘やかされ育ってきた若者たちが
社会に出てストレスの解消の仕方や、逃げる≒選択を代えるという手法すら取ることができない。
先々の想像ができない人が、目の前のことに飛びつき起こした自責について、
負う結果を享受できず、シングルマザーが我が子を見殺しにするような事件が起きてしまう。
ダメであっても許されるという教育環境の中では、
それが許されない社会に出たら、そのダメに押しつぶされてしまうのは当然の摂理です。
そんな成長期を過ごした大人は、問題が起こると、他人のせいにします。
なぜならば、ダメな自分は悪くなく、それを許容できない周りが悪いからです。
一方、会社もこういう人材を人財に育てるだけのゆとりがない。
時間も労力もコストもかけているだけの余力が持てないため、
結果、特に中小企業では使い捨てとなってしまいます。
そう考えてみると、どんな状況に置かれたとしても、
踏ん張って、しがみついてでも、やり遂げる強い根性を持った外国人を、
ゆとりのない中小企業の経営者が求めるように、傾いていくのでしょう。
それが良いとは決して思いませんが、どこまでいっても経営者の考え方一つです。
つまり、その経営者についていけるのかどうか。
これは日本人も外国人も同じでしょう。
しかしながら、片道切符的で来ている外国人であれば、
比較してみても、逃げ道が複数ある日本人よりは、
よほど可能性があるのではないでしょうか。
ただし、外国人労働者にとっては、労務管理をきちんとしなくてはなりません。
時給が10円高い隣の工場に、明日から行くのが外国人です。
必死な分、それだけゲンキンにも動きます。
色々気をつけて雇用していきましょう。
*無論、外国人だけではなく、日本人の従業員も引き続き確保していかねば、
外国人のほうが多い職場となり、かじ取りも難しくなる場合もありますので、
バランスも大事かと思います。